第4章:人間不信のマニュアル2(後編)
「しかし…従業員ごとに別のマニュアルなんて…」
上山は構わず続ける。
「そしてウェイターが熟練し、従業員に共通の有効な指示方法を見つけるたびに、マニュアルを改善・統合していきました。すると、究極の一行にたどり着いた」
あらかじめ上山の用意した結論に導かれていることを感じつつ、結局は彼の話に引き込まれてしまう。藤沢は自分の人の良さに苦笑いする。
「究極の一行?」
「『コップの下に小指を入れる』」
「…?」
「究極の一行です。誰にでも理解できる。どんな地方の出身者でも、しつけの行き届かない家庭に育ったものでも、こうすれば乱暴に水をサーブすることはできません」
「なるほど」
「マニュアルにこの文言を入れた途端に、ガチャガチャドンドン騒がしかったホールは、高級レストランのように静まりました」
「たったそれだけのことで…」
「逆にこの一行に、無数の試行と改善の結果が詰まっています。この文言にたどりつく過程で、マニュアルは現地の誰もが理解できる内容に洗練されたのです」
「…この工場でもそれを?」
「やります」
「しかし…それは、とても時間のかかることではありませんか?」
「そんなことはありませんよ。なにしろこの工場で働いているのは、世界でも冠たる優秀な労働力、日本人です。この工場は間もなくオペレーショナル・エクセレンスに達するでしょう」
オペレーショナル・エクセレンス…最初に聞いたのは、確かKawaii堂パークの会議室…。
「栃木工場は他社との競合において、かなり優位な状態に立てるようになるでしょう。それは衛生管理だけではありません。生産性においても、採算性においても」
「そんな…工場の存続を危ぶんでいるときに…夢みたいな…」
「ただ…その状態を維持するには、不断の試行錯誤とマニュアルの改善が要求されます。私は永久にこの工場に貼りついていることはできませんので…」
「一過性の改善では困ります。永続的に異物混入0を維持して頂かないと」
「あなたがやって下さい」
「え…」
「あなたが、この工場のオペレーショナル・エクセレンスを維持するのです」
休憩終了のアラームが鳴る。包装機が轟音をあげて動き出す。
「わたしが…」
上山はうなずくとノートパソコンを手に取り、やさしく藤沢に手渡した。
定例会議…藤沢の胃はキリキリと痛い。案の定、各工程の責任者は上山のマニュアルを猛烈に拒絶した。
「これ、できるよ…全工程に専用のマシンを導入すれば」
「なにこれ…倉庫まで32歩って…」
「このマニュアルさ…現場に持ってく俺たちの身にもなってよ」
「また、若いの辞めちゃうな…」
「粘着ローラー30分ごとに使用って…仕事になんないよ」
「労基署とか、問題ないんすか?これ…」
「いいよ…こんなならKawaii堂と手ぇ切りましょうよ」
「カフェ・レストランツさんはどう思ってるんですか?こういうマニュアルを工場に押し付けることに関して」
藤沢が横目で上山を見る。上山は、最初の会議のときと同じく黙って資料を眺めている。
「社長!社長のお考えを聞かせてください!」
議場の視線が、宇都宮パティスリーの社長に集中する。
「…やってみようか」
議場が静まる。
鶴の一声だ。宇都宮パティスリーにおいて、社長の決断は絶対の重みを持っている。藤沢は青い顔のまま、小さなため息をつく。
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【ハニー・モンスター】
全工程終了後の異物混入率 前月比 0.11パーセント
前月比、約…900分の1!
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上山と宇都宮の社長は、同じ資料の同じ場所をにらんでいる。
藤沢と上山、社長の三人しか持っていない秘密の資料。藤沢は議場の全員に配ることを主張したが、上山が拒否したのだ。
「こんなところで、油断をされてはかないませんから」
苦情の矢面に立つ俺の身にもなってくれ…。苦々しく思いながらも、藤沢の目の奥は笑っている。
異物混入率、前月比1000分の1まであと一歩。
まわりに悟られないようにして、上山も口の端で小さく笑った。
(第5章へ続く)
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