第3章:人間不信のマニュアル(後編)


第1部 神のオペレーション~第3章人間不信のマニュアル(後編)


藤沢は眉をしかめた。仕掛かりが多い工程は、問題のある工程ではないのか。ほかにどのワークセンターを改善するというのか。


「その前の工程の生産を落とすのです」

「…」


藤沢は言葉を失った。優秀なワークセンターの生産能力を制限するのか?


「余裕のないワークセンターの仕事を急がせても、異物混入は減りません。むしろ、エラーが増えて混入リスクを上げてしまいます」

「しかし、工場には生産目標があります。利益を減らして異物混入ゼロを達成したところで何の意味もありません」

「優秀なワークセンターが頑張ったところで、工場の生産は増えませんよ」


…なるほど。生産ライン上のすべての工程を経なければ、製品は完成しない。一番生産が遅い工程が処理できる数量以上に、工場は生産することはできない。


「では、効率の良いワークセンターの生産を減らして…それからどうするのですか?」

「検品部隊を編成します」

「検品部隊?」

「生産を落としたワークセンターには、余剰の人員が発生するはずです。そのヒューマン・リソースを活用します」


翌日から、人的資源の絞り出しが始まった。投入する原材料の量を調整するだけで、工場内から仕掛かりの在庫はみるみる消えた。それにともなって、検品で発見される異物混入品の数が減少し始めたことは、工場の従業員の誰もが驚くところだった。

減少した仕事量に応じて、各ワークセンターから人員が集められる。編成された検品部隊は、問題のありそうな工程にとりついて特設の検品ブースを設けた。仕掛かり在庫の山を築いていた工程から優先順位をつけて、ひとつひとつ異物混入の発生率を調査する。


その過程で、異物が混入する原因がはっきりとし始めた。それは、抜け毛を粘着するローラーテープの交換頻度の低さであったり、メガネを着用すると頭部との間に隙間を生じる作業帽の仕様であったり…。普通であればとても気がつかないようなファクターが神経質に洗い出された。


その一方で、異物を『持ち込まない、発生させない、見逃さない』といった標語が掲げられた。工場の中心から外に向かって気圧を上げる。工場全体が陽圧を帯びることによって、異物は外に向かって吹き飛ばされていく。番重(仕掛かりを乗せるトレー)も静電気を帯びないものに変更された。工場の入り口には粘着板が設置され、靴底の異物も除去される。


わた埃の発生を抑えるため、空気の流れを妨げそうな不要な資材は工場区画外に運び出された。エアコンのフィルターも徹底的に掃除される。


菓子の包材は、異物が検出されやすいよう透明なものに切り替えられた。検品室の照明も照度が引き上げられる。


施策は次々と実行された。急激な変革は反発を呼び、その度に、藤沢は駆けずり回って対応に追われた。とんだ貧乏くじだったが、それでも藤沢は歯を食いしばって改革を進める上山を守った。上山は反感の的になり、健気な相棒である藤沢には工場中から同情が集まった。二人同じ目標に向かっているのに…不思議な話です、と藤沢はやつれた顔で笑った。


轟音…ラッピング工程のすぐそばに立って、上山は録画した作業内容を何度も見返す。左手に持ったノートパソコンに何かを打ち込んで、またモニターに目を戻す。休憩のアラームが鳴った。機械が止まり、従業員が一斉に持ち場を離れる。


「上山さん、休憩ですよ」

「…」

上山は気がつかない。人並みはずれた集中力のせいで、藤沢の声は彼の耳に届いていなかった。


「上山さん、法定の休憩時間はちゃんと取って下さい」

藤沢は上山の背後に回りこむ。目の端で捉えたPCの画面は、アリの群れが一斉に移動してきたように数字で埋め尽くされていた。

「…あ、藤沢さん…すいません。休憩ですか」

藤沢は唾を飲み込んだ。…ラッピングの担当者が作業にかかった時間…。コンマ秒単位まで緻密に、動作ごとに分解され、複数回の試行データからベストな作業時間が求められていた。


「上山さん…」

「はい」

「これは…あの…」

「業務マニュアルを作成します。作業者の非効率なオペレーションを見つけ出して修正する。ひねり出した時間は5Sの徹底に使うことができます」


5Sとは、整理・整頓・清掃・清潔そして業務ルールの「習慣化」。工場ではよく使われる言葉だ。


「従業員は機械ではありませんよ。秒単位で管理するなんて不可能だ」

「ここまでやらなければ…各工程に課されている異物混入率の低減目標は達成できません」

「しかし、これでは…」


この工場のオペレーションは、当初から優秀なのだ。この上、コンマ秒単位の業務マニュアルなど作られたら反発は必至だ。


「従業員はみなギリギリで作業しています。現行のマニュアルであってもそうです」

「…」

「レバーの握り方ひとつ、動線の歩数一歩、我々が管理する必要があるでしょうか。彼らは彼らなりに、必死に誠実に作業しています」

「それでは…まだだめです」

「無理です…無理ですよ…上山さん」

「私が目指しているのは、その先の誠実です」


その先の誠実?…この人は従業員に、奴隷みたいな服従でも要求する気だろうか。

異物混入ゼロと人間性否定のマニュアルに挟まれて、藤沢の胃はまたキリキリと痛み始めた。

(第4章に続く)