第1部最終章 神のオペレーション2
「え…」
藤沢は一瞬、耳を疑った。そんな急に…慰労会の真っ最中に…。
「いや…そりゃ…ちょっと困りますよ」
「並行して他のプロジェクトも抱えていまして…Kawaii堂様とは異物混入ゼロを達成した時点で、業務終了という契約になっておりましたので」
引き継ぎは?後任の責任者は?第一…今後、どうしたらいいのか?
上山は食堂を見渡した。従業員たちは美味しそうに酒を飲み、笑い合う。その顔は達成感と自信に満ちあふれている。
「この工場はオペレーショナル・エクセレンスに達しました」
他社に対する競争力と優位性の獲得…藤沢は驚いたことがある。
この数ヶ月、工場内の仕掛かりや在庫、月々の売り上げ、さまざまな指標などを上山に言われるがままにチェックしてきた。藤沢と上山がこの工場の改善に着手してから…特にあの非人間的な業務マニュアルを実施に移してから…工場の負債は減り、出荷数が明らかに伸びていた。
機械か奴隷のように従業員を使役しているのだから、当然だ。藤沢は最初そう思った。
しかし、手数の増えた従業員たちは、むしろ以前よりも落ち着いて仕事をしているように見える。一個一個の工程が確実に終了し、よどみなく次の工程に引き渡される。ロスもなければイレギュラーもない。仕事のペースを乱されることもなく、無用なストレスもない。まるで適度に油をさされたいくつもの歯車が、音もなくかみ合って回っているかのような…。
ひとつの精密機械となった工場は、悩むことも急ぐこともない。ただ静謐に運転を続ける。
「とりあえずは、この状態を維持すればよいでしょう。ただ、それはとても難しいことです」
「そりゃそうですよ、この状態は薄氷の上に保たれているんですよ。遊びなく緻密に組まれた工程ですから、ひとつのトラブルが一瞬で連鎖します」
「そうですね、一瞬でガタガタだ」
「ハンドル操作を数ミリ誤っただけでカッ飛んでいく。F−1マシンみたいなもんですよ。誰でも運転できるもんじゃない」
「いや、できますよ」
「誰が」
「あなたが」
「…」
「あなたならできます」
前にも同じようなことを言われた。できるものか…藤沢はそう思う。前よりもいっそう自信がない。これほど圧倒的な仕事をされては…。
「この数ヶ月で、藤沢さんに伝えるべきことはすべて伝えさせて頂きました。あとはOJTしかありません」
「自信…ないですね」
「私も永久にこの工場にいられるわけではありません。そして残念ながら…Kawaii堂、カフェレストランツ、宇都宮パティスリーを通じて…この業務に堪えうる経験と知識を持つ人物は、藤沢さん、あなただけです」
そうなのかな…と、少しだけ藤沢は思ってしまう。いかん、また貧乏くじを引くハメになる。上山はハナシがうまい。
「せっかくここまで漕ぎつけた工場が…あなたの決断いかんで元の黙阿弥です」
「そんな…私には無理です」
「ひとつさ…藤沢さん」
思わぬところから声がかかる。宇都宮パティスリーの社長が、横でニコニコとビールを飲んでいる。
「社長…」
「藤沢さんさ、ひとつ…やってくんねえかな」
社長が頭をさげる。
「やめて下さい、社長」
従業員たちが藤沢を取り囲むように集まってきた。
「できる限りサポートするよ」
「なあ、残ってくれるんだろ、藤沢さんよ」
「いやぁ、嫌とは言わないよ…そういう人じゃないもん」
従業員たちも順々に頭を下げた。泣きそうになってしまう。あー…これはもう逃げられない。藤沢は眉を下げてため息をつく。しばらくは東京に戻れないな。
「じゃ、あの…社の許しが出れば」
歓声と拍手が上がる。上山が藤沢に握手を求める。
「神様になって下さい」
「え?」
「この工場の神様に」
…どういう意味なんだろう。最後の最後まで宿題を負わされた気がしたが、すぐに問い返すことはしない。困っても、もう上山に尋ねることはできないのだ。
藤沢は微笑んで、上山の手をぐっと握り返す。
困難を笑って、鷹揚に受け入れる余裕が藤沢にも生まれていた。
翌日、上山は岐阜を発った。そして、藤沢の宇都宮パティスリー出向が引き続き認められた。
(第1部最終章 神のオペレーション3に続く)
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